今回は歴史投稿第二弾!!
日本の歴史史上最も有名な「本能寺の変」の謎について書いていきたいと思います!
歴史好きでなくても誰もが知っている織田信長と明智光秀。
近年、色んな歴史的発見により、織田信長や明智光秀に関する歴史的見解が変わってきているのです!!!
普段から歴史番組や、歴史に関する本で情報収集した中から最新の織田信長、明智光秀、本能寺の変について書いていこうと思います!!!
目次
- 本能寺の変の謎とは!?
- なぜ明智光秀は織田信長を討てたのか!?
- 織田信長についての新しい見解!!
- 明智光秀についての新しい見解!!
本能寺の変の謎とは!?
そもそも“本能寺の変”って家臣である明智光秀が主君である織田信長を裏切って本能寺を焼き、織田信長を自害に追い込んだという事は誰もが知っている事件だと思います。
何が日本史最大のミステリーなのかというと、
織田信長の遺体が消えてしまったのです!!
そして、明智光秀が織田信長を裏切った動機や真相には諸説あり真実は明らかでないというところなのです。
遺体が見つからないという事がどういうことかというと、、、
戦国時代の戦において、戦いに勝った側が負けた側の遺体、特に大将の遺体を確保することは、何よりも重視されていたので、
明智光秀もすぐさま織田信長の遺体を確保しようとしたはずです。
なのに、織田信長の遺体は見つからないまま本能寺は焼け落ちました。
遺体に関しても諸説あり、焼け切ってしまった説や、誰かが遺体を持ち逃げた説などありますが、
私は持ち逃げた説を信じています!!
なぜかというと、焼け切る前に遺体は絶対回収できるはずという点と、持ち逃げ説を裏付けする様々な情報があるからです。
織田信長の遺体のゆくへは!?
実は、織田信長には清玉上人という幻の弟と言われる僧侶がいます。
この清玉上人は実の弟ではないものの、家族同然の扱いを受けていて、本能寺の近くの阿弥陀寺というお寺の僧侶でした。
そして、本能寺の変で唯一本能寺の出入りできていたのが!!!!
僧侶です!!
そして、阿弥陀寺には織田信長と息子の信忠や織田家のお墓があり、織田家ゆかりの寺であることは間違いないです!!
戦国の戦で首を取る事が最重要視されていたというのものあり、死を覚悟した織田信長が真先に考えたことが自分の遺体の扱われ方だったとも考えられます。
そして信長の命令で清玉上人が遺体を回収しにきて、阿弥陀寺に葬ったのだと思います。
そして、明智光秀が本能寺の変を起こした動機については家康黒幕説、秀吉黒幕説、朝廷黒幕説、信長の正室帰蝶黒幕説、怨恨説、野望説など50を超える説が存在します。
明智光秀の子孫とされる作家の明智憲三郎さんが書いた「本能寺の変 431年目の真実」に書かれていた家康共犯説を個人的に信じています!!
正直この動機に関しては、いっぱいあり過ぎてよくわからないのですが、
なぜ明智光秀は織田信長を討てたのか!?
今の岡山県、高松城攻めをしている家臣の豊臣秀吉を支援するために織田信長は本能寺に宿泊していました。
しかも、色んな武将に出陣を命じていたため、信長自身は100人程度の兵しか連れていなかったので、光秀にとっては、絶好の機会であったと考えられます。
そして、織田信長は多くの名物茶器を本能寺に運んでいたため、本能寺で大きな茶会をしていたと言われています。
「本能寺の変 431年目の真実」にも家康を茶会に誘っていた為警戒されないように少人数で上洛したのではないかと書いてありました。
しかも、信長はこの茶会で家康を殺すよう光秀に命じていて、家康とも親交があった光秀は家康と共謀して信長を討つ計画だったのではないかと、、、。
信長からすると完全に“不意を突かれた”状態です。
この家康共謀説も有名な説で、実は明智光秀は“山崎の戦い”で豊臣秀吉に討たれた後、生き延びて南光坊天海になった。という説にまであります。
徳川家康にお墓である、日光東照宮には明智光秀の家紋が随所にあるのです。
さらに、日光東照宮の傍には「明智平」
という天海が名付けた場所があったり、山崎の戦い以後に明智光秀の名前で彫られている石碑が比叡山にあったりします。
ただ、もし明智光秀が南光坊天海として生きていたとすると「人間50年、、、」という詩があるように寿命が50年とされていた戦国時代に天海は家康から光秀の三世代に支えていたので明智光秀は100歳以上も生きた事になってしまいます!!
なので、明智光秀天海説はないと思います。
でも、実際に明智光秀の理想に近い状態は、後の徳川政権が実現していて、江戸幕府による安定した社会は270年の長きに渡って続いていきます。
織田信長の新しいの見解!!
戦前は、信長に限らず戦国武将は、どちらかといえば軍記物などをもとに語られてきました。
なので、軍記物は都合の良いように書かれていたり、事実とは言い切れない点が多々あります。
織田信長に関する今までの歴史も「信長公記」という織田家によって書かれている軍記物によって言われてきた歴史でした。
「鳴かぬなら、殺してしまえホトトギス」
今まで言われてきた織田信長のイメージといえば、“冷酷な独裁者”的な感じを抱いている方も多いと思います。
それを裏付ける出来事として義理の弟である浅井長政の裏切りもあり首を取った後さらし首にするだけに留まらず、頭蓋骨に金箔を塗ってお酒を飲んだ事や、比叡山延暦寺の焼き討ちなど、残酷な史実からそういったイメージも強いのだと思います。
織田信長は冷酷!?
それらは事実ではあるとされているものの、ちょっと違った方面から見ると
髑髏杯に関しては、それまでは情けをかけて命を助けてきた信長でしたが、義理の弟の裏切りを受け、窮地に立たされた事からこの「小谷城の戦い」以降問答無用のジャッジを出すようになったようです。
言わば、乱世の時代に、信じる事や情けをかけるという失敗を深く自分に刻む為に行われた信長流の儀式とも考えられているようです。
比叡山焼き討ちに関しても、今のお坊さんとは違い、当時は武器を持った僧兵(武蔵坊弁慶も僧兵ですね!)を持ち、高金利で金貸しをして巨大な富を築き、「我々の教えが正しく、他はすべて間違いだ」という事を主張していた為、中々厄介な存在でもあり庶民からも恨まれていたようで、その中でも延暦寺は巨大勢力だったようです。
なので、ある意味戦国武将達と闘う事と同じ感覚どころか、政治や経済力もあった為、もっと力を持っていたという事になります。
女性や子供にも情けをかけず徹底的に殺すよう命じるのですが、ここで情けをかけてしまうと、また勢力が回復してしまうのでこの一回で全てを終わらせる為だったと考えられます。
事実、比叡山焼き討ち後に僧兵はいなくなり、純粋なる今のイメージの僧“お坊さん”になっていったようです。
冷酷な独裁者のイメージとは異なる史実もあり、
身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が、数々の文献に残されています。
お盆では安土城の至る所に明かりをつけ、城下町の住人の目を楽しませるといった、現代で言う
「安土城のライトアップ」
などもしていました。
今まで規制がかかって独占していた問屋などを排除し自由取引改革として「楽市楽座」などの政策を行って城下町の活性化をしたりもしました。
今でいう色んな失敗から学び、先見の目を持つ”カリスマワンマン経営者“と言えますね!!
天下統一を果たし、乱世を終わりにしたいという事は野望だけではなく、幅広い視点と先見の目を持った信長が“日本”という国の事を考えての事だったかもしれないですね!!
ただ、ワンマン過ぎた為に敵をいっぱい作ってしまった事も自覚していつかは誰かに謀反を起こされる事もわかっていたのではないかと私は思います。
本能寺の変で信長が言った有名な言葉
「是非に及ばず」(仕方がない)
天下統一目前に、肩の荷が降りて少々気が緩んでいた時に襲撃されて、自覚していた信長の覚悟の言葉だったような気がします。
徳川家康も織田信長の政策をモデルに江戸時代の政策には、取り組みんでいます。
大規模な街道整備を行い、街道を広く・まっすぐにする・川に橋を架ける・関所を廃止するだけでなく、一定間隔で飲食店を設置させているので、信長の政策自体や考えは当時本当に革新的だったのだと思います。
明智光秀の新しい見解!!
今まで明智光秀について出生地や、30歳あたりまでの史実があまり解明されていませんでしたが、
最近色々明かになってきたので、本能寺の変の明智光秀側視点で「麒麟がくる」は描かれることになったんだと思います。
明智光秀のイメージというと、、、
“信長を裏切った家臣”や“3日殿下”
などあまり良いイメージを持っている方は少ないかと思います。
明智光秀は実は医者でもあった!?
実は明智光秀の新しい発見で、医者だった事を裏付ける文書が見つかりました!!!
特に産婦人科が専門だったようで、産前産後の薬の調合などが細かく記録された文書や他の武将に薬の調合や使用法を伝授していた事がわかりました!!
礼儀作法や色んな知識があり、幕府や公家との親交もあった為に信長にも一目を置かれていたインテリ家臣の明智光秀ですが、
なかなかの苦労人で、織田信長に支えるまで、色々と仕官先を変え、訪ね歩きます。
そして、飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を伸ばしていた織田信長に辿り着き、遅咲きではあるものの、出世大成功を成し遂げます。
ただ、明智光秀は信長の事を物凄く尊敬しいるという内容の手紙も見つかっているのですが、光秀は年下であるカリスマ社長の信長からものすごいパワハラを受けていました。
そのことから本能寺の変、怨恨説が浮上してきたようで江戸時代には怨恨説が有力としてよく物語として書かれていた為1番有名な説になったようです。
そして、カトリック宣教師のルイスフロイスは戦国時代の日本で布教活動をし、実際に織田信長や明智光秀と会っている人物で、本能寺の変があった時も近くの教会にいた人物なのですが、
信長、光秀と面識があったルイス・フロイスは「フロイス日本史」という著書を残しています。
外国人目線で見た当時の様子が詳しく記されており、
「フロイスの記述は日本側の史料とも見事に一致しており、一貫して極めて精確である」
と重要な史料として高い評価がされています。
そのルイスフロイスから見た光秀は、、、
信長には敬意を払い、頭が切れ優れた者である為信長からも重宝されているが、世渡り上手なよそ者の為みんなから嫌わせている様子。
計略家で統率力もあり指揮官としても優秀だが、裏切りや密会を好み、刑は残酷という。
なんだかイメージと違いますね、、、( ̄▽ ̄;)
ルイスさんも光秀さんのことあまり好きではなかったようですね、、、、。
ちなみに織田信長に対しての記述はワンマンで戦を好み、短気だけど普段は大人しく、正義感が強く、神仏を信仰せず、身分の低い家臣とも親しく話していた
と記されているようで、中立の立場で見てはいるけど、信長びいき寄り目線だとは感じました。
ルイスフロイスによると野心と陰謀にまみれた明智光秀がそのまま起した事件ととらえているようです。
悪いイメージが余計についてしまったかもですが( ̄▽ ̄;)、、、私的には光秀さんは野望を抱いて本能寺の変の変を起こしたり、単なる性格の悪さで裏切りや密会をして嫌われていた訳ではないと思っていて、
なんせ乱世の世の中なので、生き残っていく為に仕方がない事や、用意周到で戦略家で処世術に優れていた為、織田家の家臣の中では嫌われてしまうのも無理ないと思います。
その代わり、普段から家臣や領民想いの光秀は、領民だけでなく、家臣からも深く慕われていたようで明智家を守り抜く為、ただ必死に働いただけだと思います!!!
なので、「麒麟がくる」で明智光秀役に長谷川博己さんが演じるのも上品さやインテリ感や、近しい人に優しい性格で考えると納得できるキャストです!!
最後に
明智光秀が本能寺の変を起こした動機の私の見解は、、、、
“理想相違説”と“明智光秀義挙説”です。
“理想相違説”はそれぞれの思い描いた理想が相違したという説で、信長が伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法で天下統一を目指し急進的な改革を進めようとしたのに対して、
光秀は室町幕府を復興し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとしたことから、光秀は自分の理想が信長のもとでは実現できないことを悟って謀反に至ったとされる説です。
そして、もう一つの私が信じている明智光秀義挙説。革命的な合理主義者である織田信長が天皇を廃する事を阻止する為、尊皇家として正義の為止むにやまれぬ行動だったという説です。
私の見解は、
明智光秀は織田信長の今後の天下統一に関する考えに賛成していたが、強引なやり方には賛成できず、それを自分のやり方で上手く平和に行っていく為、室町幕府を復興する事を目的にした訳ではなく、天皇家とも親交があり、尊皇の為に天皇を排除しようとした考えを持つ信長を正義の心で止む終えず討ったと考えています!!
色んな説がある為に、真実は未だ解明されていませんが、それこそ永遠のミステリーでワクワクしますね!!!!((o(^∇^)o))
ちなみに本能寺の変が起きたのは1582年、
「イチゴパンツ」の信長さんと語呂合わせで覚えれば、2度と忘れられなくなります!!
以上。日本史史上最大のミステリー“本能寺の変”の謎についてお送りしました!!!!